昭和49年08月03日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。此の度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁昌致すこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
今の合楽で信心の稽古をなさっておられる方達は、そうじてこの御理解のことを分っており、体得が出来ておると言う事にならなければいけんのです。天地金乃神と申すことは、お分りになっておられると、天地の間に住む人間は皆、天地の御恩恵によって私どもが、日々おかげを受けておる事も分っておる。合楽で御神縁を頂いて信心の稽古をしておるほどしの人ならば、神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所、そのわけしらず日柄方角ばかり見て無礼致しとある。
そういう御無礼のあっておる人は一人もあってはならないという。だからどうぞ皆さんも自分の胸にね、私が言うておる通りだと感じておらなければいけないのですよ。今日の御理解は。天地金乃神様と言う事は、どういうお方か分っておるでしょう。天地の間におる例えば、私共が天地乃親神様の御恩恵なしには、もうそれこそここ一寸動かれんのが私だと言う事もよく分っておるでしょう。
神仏の宮寺、氏子の家屋敷みな神の地所、そのわけ知らず日柄方位ばかり見て無礼致しと言った様な、御無礼がひとつもあってある筈はないのですね。皆さんの場合はどうですか。自分のものでもないものを、自分の物の様に思っておる人が、一人もあってはならないのですよ。勿論日柄方位など見る人が一人もあってよかろう筈がありませんがね、合楽のご信者であるならば。自分の心の中にたたみこんできておる今まで稽古してきた信心からです、そういうものを皆さんの信心から一掃されておる事なんです。
勿論ここんところはいわゆる見当違いの考え方ね、そういう見当違いの考え方等がもう、そりゃ人間ですから、時々には見当違いすることがありますけども、すぐ気が付いて本当私は見当違いのことを思うておるとすぐ改めていけるものがあるでしょう。秋永先生ところの下の鏡子さんが生まれました時にお名を頂きに来ました。その時に八波の御神鏡を頂いたんです。お知らせにね。ですから鏡子と命名した。昨日あちらのお母さんがお届けを致しました。
これから親先生鏡子を、そのまま私の生き方の鏡にしますとね、例えばそういう考え方がここんところなんです。一番大事なところですね、自分のものでもないものを自分のものと思うたり、例えそれがお寺さんであろうが、お宮さんであろうがです、もうそこはなになに神社の境内というても、やはりそこは神の地所だというのです。それを自分のようなことだと思うたりね、日柄方位なんか迷信にまどわされた、いわば窮屈な生活しておったものがです。
そういう見当違いな考え方が神に対する無礼であると言う事をここではおっしゃってある。そういう無礼が巡りが巡って来て。いわゆる難儀なもとになるんだと教えておられる。親が子を思う時にもです。まあ、どうした子供じゃろうかわからんやつじゃろかという考え方はね、見当違いなんですね、例えば商売人がです、こう言う不況時代になったから売上がすくないとか、今日は雨が降るけんでお客さんが少ないという考え方は見当違いの考え方なんです。
だから雨が降る時お客さんが少ない不況になると、成程売上が減ってくると言う事になる。見当違いな考え方をしておるからです。神様のご恩恵にお恵みにそんなこつあるはづはない。私共観念の中にそういう物があるからその観念を一掃する稽古なんですね、そしたらながい間信心の稽古をさせて頂いておって、今こそ始めてほんなら秋永のお母さんは本当の事が分った訳です。
子供を自分の鏡としますとこういう。いくらいうて聞かせても分らん、例えば思うておったのが、分らんのは子供じゃない、親じゃったと言う事なんです。ここんところが大体一番大事なところですね。この御理解三節では。ここんところはわかっとってもです。ところがわかっとっても、やっぱり商売するものがです、はあ今日は雨が降けん、お客さんが少なかろうとすぐ思う。いやいやそんなこっじゃない、そんなこっじゃないと思うわないけんのです。
ああこんな不況の時代になったから売上ががたっと減ったと、不況だから不況のせいにおしつける事は絶対にないと。神様のご恩恵をご恩恵として本当にわかったら、そんなことになる筈はないと、それは私共観念の中にね、信心のなかった以前の考え方がちらちらと出てくるわけなんです。今は私もこうやってえらそうなことをいいよるけども、私自身もやはりそうなんです。もうそれこそ私の命のように、例えば御祈念なら御祈念というものをしておるね、例えばなら、若先生が朝のご祈念をしてくれます。
本当に五分も十分もたとえば遅れる時には、私の心というものはもう本当、もう本当に自分の身をさいなまされた思いがするんです。もう値打ちがないからです。そんなことじゃね。だからそういう値打ちの無い様な事をしておる子供を見てです。私がそう言う風な思いかたをするのはまちがいなんですね。私の不精進、言や恐らく改まるかもしれません。けれどもいわずにうちでそう思うのです。
はあ今日も5分遅れた今日十分遅れた。けどそりゃ口でこそ時間でこそ五分か十分かだけれど朝の五分十分という時間な大変ないうなら合楽のご比礼にびびの入るような感じがするんです。だからそれと反対に、もう五分はよ出てくる、十分はよ出て来てご覧なさい、ああいう事はないのです。それを見る時にです、本当にそこが人間ですから、私でもなるような事言いよるけれども、それを私の非と思いきらずに、勝彦の非と見るところにです、間違いがある。見当違いです。
だからそれを直ぐ思い直すから、私は勝彦にはまだ言いきらんのじゃない、いわれんのです。自分自身の事だから。御理解三節のここんところがね、いかにそういう見当違いな思い方、考え方が神様に対するご無礼になるかと言う事をわからにゃいけんですね、だから皆さんここんとこも皆さん、それで私ですらがいつも失敗している私ですからですけれど、分ってはおると言う所まではいかにゃいけんです。
今の合楽の方は。そして分ったのですから、あっこんな考え方をしとった、ああ今日は雨が降るからお客が少ない、いやいや、そんな事のあるはずがない、神様のおかげにそんな間違いがあるはずがないというふうにですね、思いなおしていくと言う事なのですね。此の度金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け、とこうここんところは、もう皆さんは頂きずみなんですね。
お願いをして信心もでけんのにおかげを頂いてというところは、もうここんところは、皆さんの場合は願う氏子におかげというところほんに神様の働きというか、神様のおかげというものを皆さんはもう充分知ったと言う事になるのです。いいですか、今日私は皆さんこの御理解第三節をです、一応ねでけておる、でけておらんは別としてです、わかる事だけは、いやマスタ-でけておるという事にならなければね、これからの合楽の信心が進められないから、今日はこういうふうな説き方をしておるわけです。
此の度金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授けとね、そこでです今の合楽が一歩前進というか今までの自力的な信心から神のおかげで開かして貰うという、他力の他力的合楽の信心にそういう、一つの展開を見ておるわけです、今合楽の信心は。ですから今私共が一番大事にしなけりゃならんとこは、一番最後の所だとね、末々まで繁盛致す事氏子ありての神、神ありての氏子上下立つように致すと言う事なのです。
今合楽で一番言うておる事は、ここのところ。ですから末々まで繁盛いたす事と言う事はですね、私共の心の中に家庭の中に合楽をあらわすと言う事が、もう絶対に末々まで繁盛いたす事になるのです。皆さんこれは本当にそうなのですから、信じて聞いて下さいよね。合楽をあらわす、合楽をあらわすと言う事はどう言う事かというと、もう絶対お徳を受けると言う事、末々まで繁盛すると言う事はね。
初代の時には大変おかげ頂いたけれども、二代目になったらおかげにならん、おかげがあらわれないとそれは徳を残してないからです。合楽を現すと言う事は、もう絶対徳を受けていく道なのですよ。意味はわかるでしょうね、先日夏期信行の最後の時にね、久冨正義さんが発表致しておりました。皆さんが御承知の通りの人柄ですから、第一自分には人からそしりを受けたり反発された者が自分の周囲には居らない。おかげで家庭は円満。おかげで金にも不自由しよりません。おかげで家族全部が健康ですとこうね。
そう皆さんを聞かれたでしょう。成程家庭円満、お金に不自由するごとなかろう、益々事業はあんしんて繁盛していきよる。けれどもこれはいうならば、極楽と言う事なんですね。極楽を自覚したわけです。俺んところこそ、ほんに自分が死ぬか生きるかと言う様な大病の中からおかげを頂いて、そして家別れをしてからこっち、様々な難儀苦労もしたけれども、事業はどんどん思う以上に繁盛していくし、子供達は立派に育っていくし、同時に自分は近所隣からでも。
同業者からでもそしりを受けると言った事のない程しの人柄というもの頂いていっておって、もう本当に自分の家こそ極楽だと言う事をお話しました。又事実そうなんです。それで私、最後の挨拶の時にね、本当におかげを頂いて有難いが、あれでは極楽の域を一歩も出ていないんだと言う事ですね。だからあれがひとつ、合楽と言う事に極楽を頂いたら、次にはその極楽のおかげを受けておると言う事をです。
ひとつ合楽に育てていかにゃいかん、合楽というのはです神様もここにありますように、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたすと言う事なんです。上下たっとらんのです。久富建設という、久富正義という人だけが、極楽を感じたり、おかげを頂いておる、お金にも不自由せん、健康でもある、争いもないというおかげを頂いておるというだけの話。第一家内がついてこんじゃない。
正樹さんはいくら極楽、有難いと思うとっても決して嫁御のたつえさんは、本当お父さんが信心してくれるけんこげんおかげ頂きよるちゃ思うとらんです。思うとるならお礼に出てこにゃおられんはずでしょうが。そういう素晴らしい信心をおかげ頂きながら、肝心要の子供達にすら伝えきっとらんじゃないですか。これではね、いわばいうならば、末々まで繁盛いたすという事はだれ-も受けあいせんですね。只極楽にいっとりますというだけ。極楽がその次の合楽に進展していかなけれはならない、信心がね。
自分が助かる事は、家内が本当に助かる事、子供が助かる事。いわゆる神様が喜んで下さる事助かって下さる事なのですね、合楽の信心はね、私しゃ素晴らしいのはね、そこからの信心が素晴らしいんだと思うのです。そこを教えそこを本気で頂こうと、頂かなけれはと言っておる事なんです。ね、 自分、又は自分一家の事だけに、きゅうきゅうしておるような事であっては決して末々まで繁盛いたすという事にはなりません。
今日は皆さん私ね、御理解第三節をです、これはもうこの御理解の中ではこの御理解三節がもう一番、大事な御理解として皆さんもう御承知のとおりなんです。その大事な所を合楽の方達は一通りマスタ-がでけておる訳です。私しゃまだこげん所が分らんという人はです、遅れてなりません。今合楽が進んでおる所の、うんなら船に乗りそこのうちゃならんと思うて、分らん所があるならば、その訳をすこし勉強して下さい。
今日私が言うたとおりにです、本当そこは私もわかっとる、成程時々は失敗するとばってん本当のいわゆる見当違いの事を思う事もあるけれども、一寸思うてみるとこれでは見当違いの事を考えよったと、すぐわかるだけのものを皆さんは、もうマスタ-でけておるんったというところに立って今日は御理解を聞いて頂いた。そしてこれから私共の信心をさして頂かなけれはならんのはね。末々までも繁盛する事のおかげの受けられる信心をこれからあらわしていこうとね。
そん為には親にかかり子にかかり、という信心になっていかなけれはならない事 それを合楽では、合楽をあらわすといっておるのだと。先日久富勇さんが頂いておられますように、ね、常持まで来てからあそこでお茶畑をつくろうちいいよるとこじゃったね。合楽はもうすぐそこにみえておる。
人間というものはもうそんなものです、例えばよいお導きを頂いた善導寺、そして有難い、勿体ないもわかってきた。自分の心の中にそれこそ極楽の心というか喜びの心というか、心に喜びの花だ咲く。それを常持ちにもっていくところに常に持ち続けていくところにいうならば、正義さんのようなとても有難とうしてこたえん誰が聞いたっちゃうらやましいごたる、いうならば話がでけるように事になって来る訳なんです。
だからそこでいうならば、一服しておるようなもんです。合楽はそこにすぐ見えておるじゃないか、茶畑を作ると言う事はもうそこで安住しようとしよる、そこを安住の地にしようとしておるところに、それでは末々まで繁盛すると、親は極楽に行っても子供は極楽に行くとは決まっとらんと言う事なんです。合楽はすぐそこに見えとるから、もう一歩前進して、合楽のおかげを頂かなければならない事ね。そこでですいわゆる合楽の宣伝時代と最近、私言っておりますようにですね。
私共がね、もうそれこそ一人でも沢山の人にですね、、毎日々今日何人の人にお話をした、何人の人に宣伝がでけたね、この宣伝が止むに止まれん思いをさせて頂けるような状態そして最近、なら正義さん達のようなところまではおかげ頂いておらんにしてもです、小規模ではありましてもです、合楽の合楽に御神縁を頂いておるという程しの人ならばです、一応は皆んな極楽に行っておるんだと言う事です。
それを例えば言われてみると、成程ほんに健康でもあって、お金もそれくらいじゃあるけれども、不自由して困ると言う事もないし、借金はおうとるけどそれも段々払うていかれるしね、おかげでほんに信心さして頂くようになって第一薬箱が家はなくなってしもうとるたいと言う様なおかげを皆んな頂とるでしょうが。だから私しゃ今の合楽の船に乗っておる人達は、全部いうならば極楽と言う所まではいってるんだとね、その極楽のありようが少し、よいのと厳しいのとあるだけなんです。
だからそこを、おかげをおかげとして頂く時にです、そのおかげが生きてくる。だからそのおかげなら絶対、育ってくるんだと。けれどもおかげを頂きたらんような思い方をするから、そのおかげが育たんのだと言う風に、最近私は皆さんに聞いて頂いておるわけですね。先ず頂いておるおかげをおかげと分らしてもろうて、感謝の生活をさしてもろうて、そして私共はこういう感謝の生活のでけるのは、合楽に御神縁を頂いたおかげです、合楽ではこう言う様なおかげが現れております。
合楽にいっぺん来て見て下さい、本当に極楽ちゃあげんとこじゃろかと私共は思いますと言う様にです、皆さんがいよいよ合楽を宣伝していくと言う事なんです。その合楽を宣伝していくと言う事がです、いうならば、合楽を現すと言う事になるのです。一番最後の一番大事なところをです、合楽の者は全部ここのところにしぼって、もうおいてね、信心を進めていかなければなりません。
ここまでのいうなら、天地金乃神と申すことのところからね、理解申して聞かせというところまでは、合楽の方達は一通りね、分る分らんは別として、マスタ-がでけておるんだ、習うておるんだと言う事です。それでもまだ合点がいかん、ふにおちないと言う所はです、尋ねもする勉強もする、又実際にあらわせてない人は本当にそこんところを行の上にに顕わしてです。秋永のお母さんじゃないですけれども、子供の姿あの人を自分の鏡とすると言う様な生き方をです。
いよいよ身につけてね、そして合楽をあらわす事に一生懸命ならなきゃならんと言う事なんです。合楽をあらわすと言う事がこれは神も喜びの事なのですから、徳を受けないはずがない。末々まで繁盛いたす事と言う事はそう言う風に合楽をあらわすと言う事なのですね。だから今日は分っとるだろ、分っとるだろうとこう畳み込む様にして、ここまではわかっとる事として、一番最後のです、いよいよ合楽をあらわすと言う所を今日は、いうならば力説した訳でございます。
どうぞ。